Architecture
葉山に移り住み、人生が変わった―― ストーリーの詰まった
“ふつうではない家”
葉山に移り住む
以前は横浜で暮らしていた稲葉夫妻。賃貸契約が終了するタイミングでどこか別の場所に引っ越そうということになったという。「次に住む場所を探している――そんな話をこの地域の人たちとしていたら“早くこちらに来い”と言われたんです」(稲葉さん)。「この地域」というのは葉山のことで、土日にイベントがあるごとによく遊びに来て、そこで葉山の人たちとのさまざまな出会いがあったという。
家の施工はイベントを主催していたENJOYWORKSという会社に依頼。設計はたまたま海外から帰国したタイミングで再会した友人の住友恵理さんに、施主側の建築家というような立場で協働してもらうことに。
ふつうの家にしたくない
稲葉さんが当初考えた家のテーマは「ともに育つ家」。「建った時点で完成しなくていい。経済的に余裕ができたらもっといろいろな遊びができるかもしれないし、趣味や好みも変わっていくだろうと思っているので、そういう意味でいっしょに変わっていければと思いました」
構造や工法はENJOYWORKSによって開発されたものを使用し、さらに外壁材もフィックスされていたため、稲葉夫妻はプランなどそのほかの部分で住友さんとデザインのやり取りを進めていった。
稲葉さんは「ふつうの家にしたくない」との思いも住友さんに伝えた。そこで南側(道路側)に大きな開口を開けそこからの光が北側まで長手方向を貫く吹抜けに広がるような案を住友さんは提案した。平面上、高さ5.4mある吹抜けを斜めに取ったことですでに「ふつうの家」ではなかったが、そこにもうひとつ斜めの壁を挿入してさらに特徴のある空間になった。
家を斜めに大きく仕切る壁が奥(北側)に向かうにつれて傾斜しているのだ。「垂直で始まって奥に行くと3次曲面になっています。少し傾けることによって1、2階の距離が近くなり、2階のほうに少し広がり感を出すことを考えました。この壁を提案したときはお2人にびっくりはされたんですけれども」(住友さん)
稲葉さんが「こんなアイデアは自分たちからは絶対出てこない」と語るその壁はアクリルを使っているため透過性があり、夜には2階の明かりで家全体が行灯のようになるという。そしてこのアクリルを押さえるための木の格子がデザインとしても効いていて空間にさらにまた表情を与えている。
吹抜けとともに「ふつうではない家」を実現するのに大きな役割を担うことになったこの壁について稲葉さんは「ありがたい案だったなととても感じています。アクリルのおかげか、昼と夜でまったく表情が違うので気分も大きく切り替わるんです」と話す。
ストーリーにこだわる
家づくりでは、夢を語る稲葉さんに対して奥さんのほうは使用する材や仕上げの色味など実際の生活面にかかわるリアルな側面にこだわったという。床材に関しては、奥さんの実家から「地域の製材屋さんで腕のいい人がいるから話を聞きに来ないか」と提案があった。「それで岩手まで行ったんですが、一発でその製材屋さんにほれてしまいました。その人は木を見ながら “木がしゃべっている”と言うんです。どの家に行っても木と対話をしていて木に対する愛情みたいなのをとても強く感じました」
その人に「ふつうにどこでも使っている床ではないものがいい」という話をしたときに提案を受けたのがトチとスギだった。寝室の床以外はすべてトチを使い、大事に百年以上にわたり育てたものには神が宿るともいわれるスギは睡眠にもいいということから寝室に使用した。
木は生きていて、スギには神が宿る――「こういうストーリーがあるのが楽しいし、もうそれで十分だった」と稲葉さんは話すが、スギは実際に寝つきも目覚めも良く、寝ている時にパンと大きな音を出すことも。そこで「ああ、また1階が鳴っているな」と材が生きていることを実感しているという。「床が鳴るたびに岩手で聴いた話を思い出して、あの人元気かなと。そして“床がまた鳴ったよ”とか“床の間の隙間がすごく開いてきた”って電話をしたくなるんです」(稲葉さん)
人生が変わったと実感
昨年春からのコロナ禍ではテレワークが主体となった稲葉夫妻。稲葉さんは「自宅でほとんど過ごすことになったので、書斎と1階とのメリハリがあるのがとても気に入っているという。「こもって短時間で仕事を仕上げないといけないようなときは書斎に行って、時間的にある程度ゆとりがあってできるものはこのダイニングのあたりでやったほうがはかどるんですが、そういうメリハリがあるのが心地いいなあと」
木材をめぐる話に加え、この家には葉山の人たちとの交流、住友さんとの偶然の再会もあった。こうしたストーリーとともに出来上がった「ふつうではない家」に住んで、「本当に人生変わったなという気がしますね」という稲葉さん。自宅で過ごす時間が飛躍的に増えた分、そのことを身に染みるほどに実感しているように見えた。
稲葉邸
設計 etoa studio+ENJOYWORKS
所在地 神奈川県三浦郡
構造 木造
規模 地上2階
延床面積 74.52㎡